『「ニート」って言うな!』の著者のひとり本田 由紀氏の
朝日新聞でのコラムより:
...「人間力」を磨けなどと言っている場合ではない...
...世の中が不透明化し、煙が渦を巻きながら立ち込めているような状況で、個人はどうやって対処していけばいいのか。とても大変な課題です。その中で、教育界や財界、政府などがそれぞれ、「人間力」とか「社会人基礎力」とか「就職基礎力」を身に着けさえすれば何とかなるといった言説をせっせと生み出している。一般の若い人にとっては「そんなこと言われても」と戸惑うような漠とした無責任な要請を、権力や諸資源を手にした年長世代が投げかけている。
ほんの一握りの起業家を目指すような若者は、確かに主体的で創造的な個人でしょう。もちろんそういう人はいるけれど、そのイメージをすべての若者に当てはめて働く意欲を喚起・動員するという発想は、成功や失敗の責任を個人に転嫁しているだけで、何の解決策も提示していない。せめて、周囲から、完璧な強い人間になれと若者を追い立てることはやめて欲しいですね (2007/06/03)
(はてなダイアリー)ー
人間力とはー
学力やスキルだけでは量ることのできない、人間としての総合的な魅力のことらしい。
「人間力」という言葉は”哲学用語”であり、思考を停止させる。本田氏の意見に同意する。「人間力を磨けは」哲学としては許されるが、仕事上で本気で要求するようなことではない。(少なくとも新人のリクルートで要求するようなものではない。リーダークラスの人材のヘッドハンティングでは許されるかもしれないが...)
なぜなら、「人間力」という「超包括的概念」を持ち出した時点でスペシフィックな「各論」を議論する価値がなくなる(もしくは、まともに議論する意欲がなくなる)。「人間力」とは何でもありである。人間に関することは何でも人間力といえる。人間が生きていくためにすることは何でも「人間力」と言うことができる。
しかし、勉強やトレーニングで磨くことができるのはスペシフィックな「各論」としてのスキルやナレッジのみである。100のスキルも一つ一つなら学習可能であるが、漠然とした「超包括的概念」のままではどうしようもない。「この仕事には”人間力”が必要である」と本気で採用側が考えているのなら、それは本当に必要な人材の資質やスキルがわかっていないのと同じである。この仕事には「カリスマ」が必要ですといっているのとあまりかわらない。
「人間力」は哲学である。哲学者とての意見でないのなら「人間力」のひとことで総括する前に、スペシフィックな「各論」としてのスキルをあげたほうがいい。
「人間力」の重要な構成因子としてよくあげられる「コミュニケーション力」も玉虫色で超包括的ある。「アカデミックの人間はコミュニケーション力に欠ける」といわれると非常にこころ苦しい。
コミュニケーションは技術より人柄とモラルだということ
ーfinalventの日記「社会に出た後で学んでおくべき12のこと」よりー
アカデミックの人間は人柄とモラルに欠けるのか?
『「君はコミュニケーション力に欠ける」って言うな!』
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