Nature誌 (November 1, 2007)のエッセイ「
謙虚さという技術(Technologies of humility)」より:
現代で最も奇妙なことは、確実な答え(certainty)を得ることができるとみんなが本気で考えていることだ。その結果、確実な答えがわからないという状態(uncertainty)は脅威であり、知識をもってして治療すべき病とみなされる。
The great mystery of modernity is that we think of certainty as an attainable state. Uncertainty has become the threat to collective action, the disease that knowledge must cure.....
このエッセイでは、科学的データに基づいて何か実際の行動を起こす場合(とくに政治的判断)、あまりに科学的データの”certainty”にこだわるあまり、有効なDecision-makingができなくなる危険性を指摘しています。典型的な例が、地球温暖化問題であり、温暖化を100%のcertaintyで予測することは不可能であり、行動が遅れれば甚大な被害をもたらす可能性が(100%でないにせよ)ある状況下で、uncertaintyを楯に取り有効な政治的判断がなされないという事態が米国では長く続いてしまいました。
Real Lifeは非常に複雑です。科学&技術の発展によりますます複雑になっています。もしくは、もともと複雑であったのが、科学&技術の発展によりその複雑でをますます実感しているという側面もあるでしょう。複雑さゆえに現代では政治家も含め多くのひとはたとえ幻想であっても「白黒はっきりした」”certainty”や”simplicity”に惹かれ、大きく影響を受けると考えられます。
これはマーケティングやさらには科学論文においても「クリアなスートリー性」が重要視されることとも関係しているように思います。少しでも複雑でわかりにくいものは極端に敬遠され、忌み嫌われる傾向にあります。「白黒はっきりしていること」や「これって一言で言えばXXX」のように戦略的に”certainty”のふりをすることがコミュニケーション術として現代では有効であることは間違いありません。
しかしこのエッセイでは、現代人が”certainty”という幻想にとりつかれるあまり、重要なDecision-makingに支障をきたす危険性に警鐘を鳴らしています。科学が発展すればするほど、科学的なデータや科学的根拠の信頼性にますます依存し、さらなる科学的根拠の発見に奔走し、倫理的に有効なDecision-makingが遅れることに警鐘を鳴らしています。そして、科学的根拠の”certainty”の限界を受け入れる「謙虚さというテクノロジー(Technologies of humility)」を提唱しています。これは現代科学でもすべてがわかる訳でないこと(”uncertainty & partiality”)を”謙虚”に受け入れ、たとえ”uncertainty & partiality”があっても倫理的基準に則り問題を解決していくという戦略・スキルです。
もちろん、科学研究とデータの信頼性を上げる努力と「Technologies of humility」とのバランスが重要ですが(「純粋な科学的思考」と「倫理的思考」のバランスともいえるでしょう。)、科学者と政治家の両方が”謙虚さという技術”を意識する(または、学び直す)必要があるのではないでしょうか。